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「初代タイガーマスク」佐山サトルが明かす小林邦昭さんとの「別れ」…「感謝しかないです…宝物を育ててもらいました」_ff14 ストーリー

「初代タイガーマスク」佐山サトルが明かす小林邦昭さんとの「別れ」…「感謝しかないです…宝物を育ててもらいました」スポーツ報知
小林邦昭さんを追悼した佐山サトル

 「虎ハンター」の異名で新日本プロレス、初代全日本プロレスなどで活躍したプロレスラーの小林邦昭さんが今月9日に68歳で亡くなった。タイガーマストルかすさんとのしかないですててもらいました18日に通夜、ク佐ff14 ストーリー19日に告別式が都内の斎場で営まれ、山サ藤波辰爾、が明長州力、小林藤原喜明、邦昭別れ宝物棚橋弘至ら多くのプロレス関係者が最後の別れを告げた。感謝

 小林さんのライバルで親友だった初代タイガーマスクの佐山サトル(66)は、を育体調不良で葬儀を欠席したが16日に人知れず都内の遺体安置所を弔問し最後の別れを告げていた。初代佐山がスポーツの報知の取材に応じ「別れの時」を明かした。タイガーマストルかすさんとのしかないですててもらいました

 小林さんは、ク佐1956年1月11日、山サ長野県小諸市出身。が明アントニオ猪木さんにあこがれ高校を中退し1972年に新日本プロレスへ入門。小林1973年2月にデビューした。

 佐山は、小林さんより一歳年下の57年11月27日、山口県下関市で生まれた。同じように猪木さんにあこがれ高校を中退し、ff14 ストーリー75年に新日本へ入門。翌76年5月にデビューした。小林さんの3年後輩にあたる佐山は、デビュー前から道場でのスパーリングで小林さんの胸を借り、練習を離れると共に食事や遊びに出かける先輩と後輩の上下関係を超えた親友でもあった。

 佐山は、およそ半世紀となる49年前の新日本プロレス野毛道場でのスパーリングを回想した。

 「最初は、小林さんにやられた記憶があります。一番近い先輩でしたから、こういう方みたいにならないといけないと思って一生懸命に練習しました。その思いがある分だけライバルになっていきました。スパーリングでは小林さんに一回、歯を折られたことがあります。フェイスロックでバキっと音がしましたけど、僕は、ギブアップしませんでした。最後の方はスパーリングは互角になりました。どちらも譲らない。小林さんだけでなく僕とやれば誰でも極まらなくなりました」

 佐山がデビューすると2人は、前座試合で70試合以上も闘った。一方でリング外では友人となっていった。

 

 「いろんな思い出があります。今、思い出すのは、僕はその当時、四輪の自転車に乗っていました。田園コロシアムで試合があった時に道場から田園コロシアムへ小林さんと2人で乗って会場へ行きました。道路でお客さんにあいさつしながら入っていったんですが、当時は、試合場に来たら自分の試合がわかったんですが、その時、小林さんとの試合だった。だから、帰りは1人で帰りました(笑)」

 佐山は、デビュー2年目の78年にメキシコへの海外武者修業へ旅だった。2年後の80年に小林さんも海外遠征でメキシコへ来た。2人は、先輩レスラーのグラン浜田のマンションで再び共に生活を送った。

 「僕たちは対戦することはなかったんですが、ある時に2人で練習やりました。蹴りのスパーリングで当てないやったんです。そうすると、アカプルコでタッグで小林さんと試合が組まれました。その試合でスパーそのままをやったらお客さんに受けました。僕がメキシコでやった試合で一番受けました。小林さんとメキシコで試合をしたのは、その一回だけだったと思います」

 そして佐山は81年4月にタイガーマスクへ変身。爆発的な人気で日本中を席巻した。小林さんは82年10月にがい旋帰国した。小林さんは、タイガーマスクの宿敵となり、覆面を破る暴挙で「虎ハンター」の異名を獲得した。「黄金の虎」のマスクをかぶった佐山が小林さんへの思いは、たったひとつだった。

 「小林さんを上げてあげたい。何とかして小林さんを引き上げてやろうと思った」

 小林さんは必死に虎にかみつき、佐山は本気で迎撃した。

 「あのいがみ合いは、新日本プロレスの若手時代の試合です。タイガーマスクのマスクはかぶっていましたが、若手時代と僕の気持ちは変わらなかった。それは小林さんも同じだったはずです。若手のころとお互いに技は変わりましたけど、魂のベースはまったく変わりませんでした。リングはリング。ただ、私生活は違います。それをやっていました。タイガーマスクで小林さんと闘うことは、無上の喜びでした。小林さんと闘うと若手時代の試合がよみがえってくる。若手の時代に燃えたように全盛時代に同じように燃えることができました」

 思い出の試合は「全部です」と明かし、佐山は「タイガーマスク vs 小林邦昭」をこう表現した。

 

 「本当のストロングスタイルです。それこそ猪木イズムです。間違いないです」

 小林さんは 2000年4月21日に行われた獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退した。引退後は新日本プロレスの道場長として後進の指導に尽力した。リング上で戦う一方で、92年に大腸がんが発覚。手術、療養を経てリングに復帰したが99年には、肝臓がんを患い、引退後もがんが肺に転移していることが判明するなどがんとの闘いを送っていた。複数の関係者によると今年に入り体調が悪化し闘病生活を送っていたという。

 闘病中も弱音を見せなかった小林さん。その姿を「レスラーです。自分が痛々しいところを見せなかった。ミスタープロレスです」と佐山はたたえた。

 

 最後の会話は1か月前の8月だった。

 「小林さんとは、2、3か月に1回ぐらい電話をかけてお話ししていました。その時は、体調が良くないことをお聞きして8月に電話をかけました。出られませんでした。知り合いから『小林さんに電話をしても返ってきません』と聞いていたので、そうなのかな?と思っていたら返してきてくれたんです。誰もかけても戻ってこないのに、僕には戻してくれたんです」

 受話器の向こうの小林さんの声は苦しそうだった。

 「僕は小林さんに『頑張ろうよ。お互いに頑張ろう』っていたわりながら話をしました。『良くなったら飯食いに行こう』って話をしました」

 それから2回ほど電話で話をした。

 「小林さんは『俺たちいい試合やったよな』って言ったんです。僕はいい試合ってタイガーマスクの時で『大阪での試合すごかったね』とか思ったんですが、本人が言ったのは、若手時代の前座でやっていた試合でした。当時、いい試合をやると山本小鉄さんから2人に賞金が出ました。小林さんはそれを『俺たち一番もらっていたよな』ってお話されました」

 そして9月9日。4代目タイガーマスクからの電話で訃報を聞いた。

 「その時は椅子に座っていたんですが、自分の背が2、30センチ沈んだような感覚になりました」

 小林さんが最後に伝えた前座時代の「いい試合」。佐山は、回想する。

 「僕も絶対に忘れないです。あれは完全にストロングスタイルです。ガチガチにやりあった。たまにドロップキック出すぐらいで派手な技はなかった。それがお客さんに受けました。一生懸命にやるナチュラルなファイトです。それが2人とも水が合うというかいい試合ができました」

 すべての原点は、入門からメキシコへ旅立つまでの道場で切磋琢磨した3年間だという。

 「あの3年間は、若手時代に猪木さんと山本さんに作られた結晶。教えられことは『闘いなんだ』ということです。猪木さんと山本さんは、いつもそこを強調されていました。タイガーマスクの結晶は新日本プロレスの3年間です。そして小林さんと僕の戦いの結晶もあの3年間です。小林さんも同じ気持ちだと思います。あの3年間に僕も小林さんもすごいプライドを持っています。ファンもレスラーは強いと思ってくれている。僕たちは、それに応えようと必死に練習して一生懸命に試合をしました。そうすると強くなっていくんです。それは、プライドとプライドの闘いでした。変な試合はできなかった。本当にいい試合をさせてもらいました」

 亡くなって1週間後の16日に都内の遺体安置所で小林さんと対面した。最後の別れとなった「その時」を明かした。

 「感謝です。涙が出てくるのであまりしゃべれないです…感謝しかないですね」

 途切れながら言葉を紡ぐと、小林さんに誓ったことを告白した。

 「2人の娘さんたちへ『できるだけのことをするよ。何かあったら協力するから面倒みるから』と伝えました。本人は娘さんのことを一番心配していると思いますから。2人とも大人ですが『何かあったらやりますから安心して』と誓いました。お顔はとても安らかでした。小林さんが永遠の眠りにつきました」

 タイガーマスクの宿敵は、ダイナマイト・キッドさんが2018年12月5日に60歳で逝き、ブラック・タイガーのマーク・ロコさんが20年7月30日に69歳で亡くなり、小林さんが天に召された。「みんな素晴らしい人ばかりでした」と感謝した佐山は、最後に小林さんとの出会いをこう表現した。

 「宝でした。宝物をもらいました。宝物を育ててもらいました。ありがとうございました」。

 (福留 崇広)

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